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2016年8月14日日曜日

我が家にとっての戦争

終戦記念日


1945年8月15日「玉音放送」で、ポツダム宣言(全日本軍の無条件降伏等を求めた、全13か条からなる宣言)を受諾したことを知らせられる。



この日を日本人は「終戦記念日」と呼んでいます。



しかし米・ソ等においては、1945年9月2日に日本の降伏調印式がなされ

「第二次世界大戦が終結した」と認識されているようです。



日本人にとっては、天皇から「もう戦争は終わった」と言われた日が、終戦であり、


『もう空襲に怯えることなく生活でき、戦地に行く事もなく、戦地に行った大切な人が帰ってくる。』

という認識だったのでは?それが今に至るのかと、私は思います。
















 私の祖父は二人とも戦死しています。会った事のないおじいちゃん。





母方は写真もなく、どんな顔をしていたのかも分からないし、母もまだ幼かったのでどんな父親だったのか、覚えていないようです。





 祭日には『国旗日の丸』を玄関先に掲げ、お赤飯を炊く。というのが我が家の慣わしでした。





おそらく両親は「国のために亡くなった、自分の父を」その行為で弔っていたのではないか?と、このブログを書きながら思いました。(確認していないので定かではありませんが。)





祖父が戦死したのは、両親がまだ幼い頃です。


残された母親と幼い兄弟たち。




 母の昔話は、当時の私にとっては「大変だな」というものでした。


今考えると「まだ小さい子が、本当に良くやっていたね。」と涙が出てくる内容です。



『いつもお腹が空いていた』『お母さんが仕事に行くから、いつも家事や妹の世話をしていた』

『井戸がなかったから、いつも裏の家の井戸から運んできたの。重いのを何度もね』


『お芋が混ざったご飯』『誰かの結婚式に行くと、お母さんが出されたものを残して、持ってきてくれた。それを皆で分けて食べたのよ』など。




 父の昔話も『学校に帰りに、干してある芋を友達と食べたよ。ほんのり甘くて美味しかった』

貰ったのか、失敬したのか?分かりませんが、いつもお腹が空いていた様です。



ふたりの祖母は帰ってくると思っていた夫が亡くなり、女手ひとつで苦労して、子供たちを育てました。



日本中に同じような境遇の家庭が、数え切れないほどあったと思います。



映画「蛍の墓」はその悲惨な様子を現わしていますね。余りにも可哀そうで、


二度と見たくない映画のひとつです。観ると切なくなります。






 私が住むタイには徴兵制度があります。


ただ、男子全員ではなく、くじ引きで決められるようです。



高校の三年間に『自衛隊の訓練(希望者のみ)』があり、その」訓練を終了した者は、免除されます。


訓練は週に一度、合宿もあります。息子が参加していましたが、辛い訓練です。




主人の時代もくじ引きがあったようですが、自主的に参加を希望するものは、通常二年間の所を三ヶ月間に短縮されたそうです。


その時の銃を持った写真があります。


自衛隊の訓練を受けた者は、万が一国が開戦した場合出兵する義務があるそうです。



訓練後二十年間だったかと思います。(年数は定かではありません)





2003年アメリカが『イラク戦争』を始めた時、

「もしタイが参加するとしたら、徴兵されるかも知れない」と主人がつぶやいた時には、さすがにドッキリしました。




もし主人や息子が、『生きて帰る事が出来るか分からない戦いに』行かなくてはならなくなったら・・・考えるだけでも恐ろしいです。




 世界中の争いが一日も早く終結されることを願ってやみません。




まずは私自身が、思いやりの心を持って(他人を自分だと思って接する)生きたいと思います。












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